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2011年の私の記録

by kumami

今日という日くらいは、また過去を振り返ってみるべきだろうと、フォルダに仕舞いっぱなしの写真を出してみました。今日は、3月11日。忘れもしない出来事、東日本大震災から7年目の日ですから。(写真は2011年9月のものです)

2011年3月11日の出来事の後、やっと実家の仙台に帰ることができたのは同年9月でした。その頃私はまだ神奈川県のとある小さな街に暮らしていて、3月11日には暮らしていた部屋の近くの仕事先で大きな揺れを体験し、その直後に震源を知りたくて職員の部屋へ駆け込み、テレビに映し出される映画としか思えない映像をしばらく眺めていました。

それがどこなのか、どこの国のことなのか、テレビのアナウンサーはちっとも語ってくれなくて、津波の様子とか死者の数ばかり伝えていました。やっと震源のことを知った時には愕然としました。私の故郷の地名が出てきたのです。あの震度では、海から離れている実家も無事ではないだろう、もしかしたら自分は天涯孤独になってしまったかもしれないと、独り言を言っても周りの人たちは何も言ってくれませんでした。

というか、ものすごい映像を見て、自分の国の出来事だと実感する人がいなかったような状態でした。とある大きな組織に勤める人の身内は原発の影響のない土地へ避難したという噂もあり、職場の派遣さんも数人消えてました。

携帯で実家やきょうだいに電話してもつながらず、無事なのかそうでないのかもわかりません。夜になっても、テレビは津波の映像を繰り返して死者の数をカウントするばかりで、沿岸部以外の仙台市内の様子は全くわからず。きっと火災や倒壊で全滅だろうと、悪い想像はつきませんでした。

やっと携帯がつながったのが当日の夜遅く。実家の家族はみな無事。家も大きなダメージなしとの報告。停電のため津波のことは知らなかったとのことです。その後の日々は、食料の確保にコンビニや遠くの店に並んだり、お風呂に入れないのが一番の悩みだったと後から聞きました。煮炊きや寒さには石油ストーブやが活躍したそうです。現地では、日々の生活に一生懸命だったようです。

こちらはこちらで、連日放送される津波の映像を見ては涙し、放射能漏れの心配や故郷の心配や、食料の買い占め問題や停電や余震などで心労がつのるばかり。一大決心してボランティアに申し込み、説明会まで行くも、体調不良でドタキャン。そのための後悔や自信喪失や自責の念にも疲れ果てました。

その後は生活のための仕事をしながら、自分にできることは何かと考え、在宅仕事でお世話になっていた会社さんに協力して、現地の方々へ役立ちそうな情報サイトの手伝いなどをしていました。

そんなこんなで半年が過ぎ、実家もやっと落ち着いてきたとのことで、帰郷したのが9月です。そのついでに旧友と会い、車で石巻から女川方面へと連れて行ってもらいました。「見ておいた方がいいよ」そう、友人が言ったのです。友人もまた、仕事関係の先輩からそう言われたそうです。人生で二度とないであろう酷い出来事を見ておくべきだと。

2011年9月24日。震災の日から6ヶ月と少し。気持ち良く晴れた日でした。そこにあるのは現実そのものなのに、気持ちはどこか違う世界を漂っているような感じというのか、その光景を実際に見ても、言葉も出ず、心に何も思いつかないのです。ただ、なんとなく息が苦しく、車から降りることにはためらいを感じ、車内から写真を撮るのが精いっぱいでした。

海水の下に沈む町の一部を見て、不謹慎にも、ふと思い出したのは「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画のことです。あの風景が現実になってしまった、そう思いました。更地に見えるのは元々は住宅や建物があった場所だと思われ、水たまりのある部分もしっかり地面だったと思われます。

神社の鳥居は残っていました。

空は青く、海の色は美しく・・・

私が故郷へ帰ってきた理由の一つは、故郷に税金を払おうと思ったからです。自分が暮らすのでさえままならない生活をしている自分なのに。ほんの微々たる額でも、どうせ払うなら故郷に払いたいと思ったのです。若い頃、あんなに嫌っていた故郷なのに、震災を機に、帰りたくて仕方なくなってしまったのです。

というわけで、いま私はここ仙台で暮らしています。故郷の田畑や海や山でとれたものを美味しくいただき、消費し、たまには海へ出かけて行ったりしながら、自分に何ができるのか考えていきたいと思います。

(故郷は仙台ですが、広い意味で慣れ親しんだ海や山、周辺地域、大きくは東北全体を故郷と思いたい)

★場所の情報など

写真:石巻周辺

カメラはオリンパスμ

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