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写真の話 ブレッソン

by kumami

とても個性的な写真を撮られているdecoy_kさんのブログ「古寺巡礼̠-上野-①」を読ませていただき、そこに記されていた写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉がとても印象に残り、図書館で本を借りてきました。

写真集の方はすごい年季が入っています。昭和39年12月20日発行と記されています。古いだけではなくて、どれだけ多くの人に読まれてきたかを物語っているようです。気のせいか酢酸の匂いがしたりして・・・

背景写真の本、二冊。「アンリ・カルティエ=ブレッソン作品集」と「こころの眼」です。写真家って、写真作品だけでなく、素晴らしい言葉も残しているのですね。とはいえ、けっこう難しい内容でした。私が読んで感動した言葉、ずっと覚えていたい言葉をここにメモしておきたいと思います。

だから、報道写真家には大きな責任がある。われわれは《発明》してはならず、《発見》しなければならない。

「アンリ・カルティエ=ブレッソン作品集」より

しかし、わたしにとってほんとうのただ一つのよろこびは、撮影のときに感じる肉体的なこころよさ、時間との勝負、なんとしても目と頭と心とを同じ視線にまとめ込もうとする息苦しさである。

「アンリ・カルティエ=ブレッソン作品集」より

私にとって写真は、世界を理解するための、ほかの視覚的表現と切り離すことのできない手段のひとつ。おさえきれない叫び、こころを解き放つ手段。自分の独創性を明らかにするとか、主張するものではない。生きる術なのだ。

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」より

私が愛するのは、自らをも忘れる一瞬のうちに、被写体がもたらす感動と形状の美しさを記録する写真の可能性だ。そこに現れたものが呼びおこす幾何学だ。

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」より

そしてごく私的な世界もふくめ、この世のあらゆる出来事に被写体は存在する。だからこそ私たちは何が起きているのかを明敏に見きわめるとともに、自分自身が感じたまま素直にのぞめばいい。肝心なのは、自分の感じとったものに対し、自分をどう位置づけるかなのだ。

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」より

複雑な機材や照明の類いは、思うに、飛びたとうとする小鳥のはばたきをとめてしまう。

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」より

そして写真にそれを写すことができるのは、その変化に同調するほど柔軟なリズムから生まれる直感だけだ。

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」より

写真て、なかなか奥が深いんですね。絞りもシャッタースピードもピントもめんどくさいと思う私ではありますが、ブレッソンは、それらは車を運転するときのギアチェンジのように瞬時にできないといけないとも言っています。そうでないと、あ!と思ったその時の瞬間を撮影することってできないですものね。そんなブレッソンも、ライカという手のひらに収まるような小型のカメラで、レンズは50ミリを主として、ピントもほぼ固定だったという話です。

なんだ、同じじゃないかとひっそり思ったりもしますが、私の場合、コンデジの設定はPで色調?はオートのままです。カメラや写真を勉強していない言い訳にもなりますが、あれこれやってる余裕も無く、あ!と思ったときに撮れればいいかなと。ピンボケもブレも被写体とカメラと私自信とのその時だけの偶然の一致ということで、肉眼には見えない状態が写ってしまうけれど、それも真実だと私は解釈しています。

暗けりゃボケてあたりまえ、そんな考えで、しかもボケたままが好きだったりもします。過去のブログの「nantonaku海」の波のボケ方はどんな技術を使ったわけでもなく、夜7時過ぎという自然の暗さとカメラが勝手に作った作品です。遠くの小さな赤と緑の光、気づいてくれる人ってどれくらいいるのかなと思ったりしてます。遠くの小さな灯が無性に好きだったりします。

ブレッソンの言葉で特にいいなあと思ったのは、自分を忘れるほどの一瞬とか、こころを解き放つ手段とか、自分自身が感じたままに素直にという言葉です。自分もそんな風に写真と関わっていけたらなと思います。が、しかし、ここのところ寒すぎてカメラ持てません・・・

★参考図書

「アンリ・カルティエ=ブレッソン作品集」アンリ・カルティエ=ブレッソン 朝日新聞社

「こころの眼-写真をめぐるエセー-」アンリ・カルティエ=ブレッソン 岩波書店

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